スペルカードルールは妖怪に「負ける」道を用意したのかも知れない

我が娘阿求が言ふには、妖怪と言ふのは精神的な生き物であるらしい。肉体に対する依存度が低いため、身体は頑強であり、また余程の大けがを負ったとしてもすぐに平癒する。

強靱な能力は一介の人間にとって大きな脅威であるが、その分、精神的な面が弱点となりうる。例へば、人間は身体を蝕む病に冒されやすいが、妖怪は精神を蝕む病に冒されやすいらしい。謂われや進行の宿った攻撃は妖怪の弱点であるし、或いは人間を襲ふと言ふ関係が無くなった事で自己の存在意義を危ふくした事も、非常に深刻な問題として考へられてゐた。

スペルカードルールは、この閉塞感を打ち破り、擬似的とはいへ「妖怪退治が出来る」状況を創り出す事で、妖怪の存在意義と人間の力を維持するといふ意義がある。例へば幻想郷縁起の紅 美鈴の項。

ただし、退治するとなると非常に難しい。武術の達人で戦闘能力はかなり高く、弱点らしい弱点を持っていない。また、紅魔館から移動してくる事も殆ど無い為、他の妖怪が応援に来るかもしれない。

退治するには、時間制限のある(妖怪と人間では体力的に絶対不利なので、形式的な試合とする事が大切である)一対一の決闘を申し込み、正攻法で相手を上回る力を見せつける以外に無いだろう。逆に言うと、腕試しには良い相手かもしれない。

その一方で、スペルカードルールは妖怪同士の戦ひでも積極的に採用されている。例へば風見 幽香の項。

ただし、力がある者同士が衝突すると双方徒では済まない事が判っている。その為、勝負事は先にルールを決め、形式的に戦う事が多い。ルール上で勝負が付けば、まだ戦えるとしても大人しく負けを認める。相手に負けを認められた場合は深追いしない。それが長く生きる妖怪の智慧である

この記述だけでもそれなりに納得出来るものはあるが、何故妖怪同士が衝突するとただでは済まないのか。それは妖怪が精神的な存在であるから、「負ける」といふのが時として自身の存在を危ふくするほど危険な状態であるからでは無いだらうか。例へばアリスの妖々夢おまけ.txt

霊夢達と戦う明示的な理由は無い。そこに居たから魔法の相手になっただけである。圧倒的な力で勝つことは、アリスにとって楽しくともなんとも無いので、常に相手の様子見て、それより少しだけ上の力で戦おうとする。負けても全力は出さない。
全力で戦って負けると、本当に後が無い為である。

命名決闘方式は、予め自分でどの程度の力を出すか決めてスペルカードを提示しなければならない。途中で力の入れ具合を変へてはならないし*1、負けても勝っても予め双方が合意した以上の要求をしてはならない。

人間側からしてみればこれは勝利を前提とした規則に思へるが、逆に妖怪の側から見れば、負けても後腐れが残らないといふところの方が重要なのではないか。アリスは極端なのですぐに萃香に見破られたが、紫にしろ幽々子にしろ閻魔様が現れる時はそそくさと退場するなど、強者を――本気を出さざるを得ない状況を避けるのは妖怪に共通する性質である*2

かうしてみると、幻想郷の規則はある意味「負ける事」を肯定するシステムのやうにも見える。長く生きると、上手く勝つ事よりも酷く負けない事の方が重要であると身にしみて実感するらしいが、それに通ずるものが幽香の項からは感じられる。だからこそ、たとへ異変の時であったとしても、負かした相手を殺したりはしない。魔理沙にしろ霊夢にしろ、這々の体ながらもいったん居場所に戻り、再起を誓ふ形でバットエンディングが描写される。幻想郷において「負ける」事は決して致命的な事態ではないのである。

名目としては、スペルカードルールは妖怪の弱体化を防ぐ為に実施され、競技の美しさと奥深さ故に幻想郷中*3大流行を見せたわけだが、その一方で、妖怪達に「上手く負ける方法」を示す事もその目的の一つにあったのではないか。儚月抄における紫の言動や、或いはこれまでの異変における結末を見てゐて、ふとそんなことを思った次第である。


チルノちゃんフランちゃんに無血勝利の巻

いやまあ、これは捏造ですがw

*1:EasyでプレイしてゐたのにいきなりLunaticな弾幕が来るのは反則である。さういふ意味では花映塚の映姫様は反則スレスレな気もするが、まあ、途中で力を抜いてゐるわけではないのでギリギリセーフだらう。

*2:まあ、幽香は普通に立ち向かったし、一、二面辺りの妖怪はお気楽なのか割と好戦的だが。

*3:或いは外の世界にまで。