Twitter雑感

Twitterを使い始めてもうすぐ3週間経つが、自分なりに思った事をメモ書きしておく。

Twitterの良いところは、同期性だとかさういふものではなく、単純に、比較的安心安全な環境で気兼ねなくつぶやきが投下出来る日本初のサービスだったからではないかと思ふ*1

例へばブログだの日記だのにおいて迂闊に変なつぶやきを投下したら、それがもとで炎上したり、どこからともなく悪霊が舞ひ込んで延々とストーキングされる恐れがある。匿名掲示板である2chだって一つのスレに延々と連続投稿したら荒らし扱ひされるし、mixiダイアリーではコメントを返さないと怒られるといふ始末*2 Webサーヴィスはコミュニティといふ鎖で自サイトに人を繋留させるために、コミュニティに対するある種の煩はしさが常につきまとってゐた。これは○○疲れといふ言葉が如実に物語ってゐるだらう。

煩はしさを感じる事自体は正常である。コミュニティとは人と人との交はりであるのだから、どうしたって遠慮や配慮は必要になる。毎日顔を突き合はせてゐる家族ですらさうなのだから。ただネットの場合、それが自分の時間的心理的器量を超えて付き合ひが成立しがちなので、○○疲れが発生するのである。

Twitterは感覚としては、ニコニコ動画のコメント機能から動画といふ「主体」が失われた感じなのかな。何といふか、実社会(を生きる自分)に対してコメントを付けてゐる気分である。Twitter疲れなる言葉があるやうに、必ずしもTwitterにおいてもコミュニティ的拘束感を感じないわけではないやうだが、それでも、主体が自分を対象としてゐる以上、既存のWebサーヴィスに比べれば格段に孤立性の高いコミュニティであらう。

言ひ換えれば、Twitterはそれ単独ではサーヴィスとしては成立し得ない性質を持つかも知れない。他に親密なコミュニティを持つ者だからこそ、そのコミュニティを離れて希薄なコミュニティの中につぶやきを投下したいといふ欲求が生まれ得るからである。

例へば私の場合、適当に思ひついた事を雑記に書く事はあるのだが――といふか、今まさにこの記事がさうなのだが、一言で済むようなつぶやきを延々と雑記に投下するのは中々心理的な障壁を感じる。ブログといふツールは情報発信には有効であっても、つぶやきを覚書として投下するには過剰装飾すぎるのである。コミュニティといふ『機能』を薄く残しつつ、どうでもいいつぶやきを投下出来るツール、といふのは思ひの外無かったのである。勿論、そんなどうでもいい情報をWebに垂れ流すなといふ批判は尤もだが、あくまでも需要(欲求)の問題なので今回はスルーさせて頂く。

ただその一方で、このサーヴィスはこれまでとは比べものにならないほどWebと現実の垣根が低い。また使へば使ふほど膨大なログがたまっていくため、余程注意深く使用してゐない限り、本格的に解析すればかなりの情報が得られると思ふ*3

現在のTwitterはUIが貧弱で、特に検索機能はS/N比*4が悪すぎて使ひ物にならない。だが、使ひ物にならないからこそ、TwitterWebサービスとして成立出来てゐるやうな気がする。ノイズが多ければ多いほど、自分の発言は意図しない広がり方をせず、相対的に安全に発信されるからである(例へばGoogleが本当に思った通りの情報を完全にノイズを除いて提供出来るやうになれば、かなり大変な事になるのは理解出来ると思ふ)

あと、私自身がさうであったように、このサービスの利点をごく普通の人が評価出来るかといふのも結構怪しい。欧米では割とビジネスライクに利用されてゐるやうだが、こと日本においてこれを仕事に応用出来る人は、ごく限られた職種の人ぐらゐだらう。

今のところよく解らないなりに楽しくTwitterを使ってゐるが、果たしていつまでこのつぶやき投下の需要(欲求)は持続するだらうか。Twitterといふサービスの行く末より、そちらの方が興味深いものである。

*1:まあ正確に初なのかは知らないが、私が見る分には初めてである。

*2:私はそんな風俗の人間ではないので滅多に人の日記にコメントしないし、自分の日記へのコメントすらたまに返し忘れるが

*3:さすがに『私は』そんな詮索したくないけど。

*4:シグナル/ノイズ比。必要な情報に混じった余計な情報の割合。