「嫌なら見るな」の裏にあるもの

ごちゃごちゃ文句言ってるなら見なければいいんだよ。気にくわないなら、読むのをやめたらいいし、食べるのをやめたらいいんだ。いちいち言う必要なんかないんだから。そうそう、君は正しい。圧倒的に正しい。絶対に正しい。100%正しい。完全な正論だよ。僕が完璧に間違っている。でも、その「正しさ」に僕は無性に吐き気を催すことがある。正論に殴りかかりたくなってしまうんだ。醜悪な光景だ、戯言を言っている愚か者を諭してやったら逆ギレして殴りかかってくるんだから、どうしようもない愚か者だ。賢い人間は文句なんか言わないよ、スルーするんだ。ホント大バカ者だよ僕は。

実際この記事を書いた人はマシな方で、ネットには本当にストレートに嫌悪感をあらわにする人は居る。まあ、さういふ人を想定して以下少しばかり。

嫌なら見るなよってのは、まあ久樹に限っていへば*1単純な話で、「嫌だって言ってるあなたを見たくない」って事の意思表示です。

何故見たくないのか。それもまた単純な話で、嫌だといふ感情は負のものだから、どうしたってその感情を浴びた側は不快なわけです。悟りでも開いてゐれば話は別でせうが、私は、嫌なことは嫌な凡人です。

唯一嫌悪感を発露させて問題にならないのは、相手もまた同じ嫌悪感を持ってゐる時でせう。嫌なものを嫌だといふのはとても快く、それは吐き出した以上の快感をもたらすから、嫌だねうん嫌だねと言ひ合ひばお互いスッキリしてめでたしめでたし。人間の感情にエネルギー保存なんて理は通じないものです。

とりわけ作品に対する感想といふのは、幾ら理論を立てたところで究極的には価値観の問題になって、宗教論争になる。例へば東方儚月抄なんてそりゃあ散々叩かれてるわけですが、私に言はせれば「だがそれがいい」なわけで、「普通に楽しめた俺勝ち組www」と言ってやりたいくらゐです。今まさに言ってますけど。

まあ詰まるところ、嫌だと思ったらアンチスレ行けと。東方なら棘*2に行けと。あそこは良いぞ。負の感情が蜷局を巻いて、一日見るだけで何もかもが嫌ひになるんぢゃないかって程。きっと全てを吐き出せて賢者の境地に達せられるでせうよ。ただ、快楽のあまり自家中毒になっても責任は持てないけどね。

もっとも、幾らスルー力が少しは身についたとはいへ、根はモヒカン気質なものですから、たまにぶち切れて長々と反論記事を書いたりします。その結果得られたものなんて自己満足以外何もない。

それに、嫌だ嫌だ言ってゐる人に対して「そんなこといふもんぢゃない」っていふのも、また一つの嫌悪感の表れに他なりません。実際、この記事なんて読み返せばとても嫌みったらしくなってゐて、因果なものだよなあと憂鬱に思ひます。「嫌なら見るな」――その一言で済ませる方がずっと楽なのですよ。

追記

書き方が悪すぎた。

ここで言ふ「嫌なら見るな」ってのは、もうその話題は止めませう、って意味です。あくまでもコミュニケーションとして「聞きたくない」であり、批評としてブログなどで考察する人を指してゐるわけではありません。むしろさういふのは必要だと思ひます。

だからまあ、私が元記事の友人の立場であるとすれば「嫌だと思ふのは自由だし、何故さう思ったのかを考察して発表してくれても良い。でも、私はさうは思はないから、そこに同意を求めないでね」ってところです。

追記2

まああと、わざわざ嫌なものを嫌だ嫌だと見続けるよりは、もっと楽しい事に意識を向けた方が建設的ぢゃないのって気もします。人生そんなに長くないんですから。

*1:といっても、私は滅多にこの言葉は使はないのだけど。

*2:月抄なら本スレでも可