創作を通じて作品への歴史が確定するといふ仮説

来年の例大祭を申し込むために、どんなテーマにするか漠然と考へてゐるわけですが、なんとなく三月精が良いなあと。いや別に三月だからなんてネタは今年で既に使ひ古されてゐるわけでして云々。

ただ、他の人はどうなのかは分りませんが、久樹は現在進行中の作品を主軸に書くのが非常に苦手です*1。まあ作風上あとで設定となるべく齟齬を出したくないってのもあるんですが、世界観を確定させる上である程度の区切り(本編は異変が終ったらそこで一旦終了なので非常にやりやすい)が欲しいってのもあります。三月精の話は日常の延長線なので、基本的に区切りが存在しないんですよね。でも終っちゃうと哀しいし。うぎぎ……。


ところで、ふと今漠然と言った「世界観の確定」って何なんだらうなあと思ったら、紫香花で紫が似たような事を言ってたのを思ひ出した。

私は、紫の桜が音もなく散るのを見ながら、六十年前の記憶が急速に消えていっていることを実感していた。六十年たったことでこうなる事は理屈では判っていたが、実際に味わうと若干の不安を覚えるものである。ただ、全ての記憶が消えるわけではない。『記録』に残っている出来事だけを残して、そのほかの『記憶』が消えていくのである。

記録に残っている出来事。それはすなわち歴史と言うことである。六十年を境に残っている物は歴史だけとなり、歴史という物は非日常を集めた物である。

ここでいふ世界観と言ふのは、作品が持つ作者としての世界観ではなく自分としての作品への理解といふ意味での話だが、ゲームをダーッとやって(或いは本を読んだり音楽を聴いたりして)、それが終った後に残った言ひしれぬ感触、印象、想念――さういふのが作品に対するぼんやりとした世界観として把握される。そしてそれを具体的に作品として練り込んでいくのが、記憶の記録化、即ち歴史を創造してゐる事に通じてゐるのではないだらうか。

自分にとって二次創作と言ふのは、パチュリーが言ふやうに、オリジナルを尊重し、そこにオリジナリティを加へて創るものであり、そのオリジナリティといふのが、自分なりの東方に対する世界観だと思ってゐる。私の場合で言へば、阿求の話を作るやうになって、阿求の話を中心に東方を随分と調べ回ったし、それでいよいよ阿求が好きなり、東方の世界観が自分なりに固まってきたといふ経緯がある*2

東方の人気の話が語られる時、二次創作の話はほぼ不可分と言って良いほど重要な要素だと思ふが、その理由の一因がここにあるやうな気がした。なにかしらの作品を書く時は、暫定でも世界観が確定してゐないと書きにくい(私は書けない)わけで、記憶を整理し、自分なりの東方観を醸成し、より深く作品を楽しむ為にはこれ以上ない最良の手段ではないだらうか。

その時、しばしばオリキャラやオリ設定がどうのと言はれるが、それすらも世界観(白田氏が言ふところの「俺東方」)に対する「空白」を埋める為に存在するのであって、勿論、中には単純な読み込み不足によるものもあるが、逆に新しい東方の一面を切り開き、世界観を深め、或いは広めるために重要な影響をもたらしてゐるやうな気がする。

そもそもこの記事だって、漠然と「三月精で話書きにくいな−」って適当に書いた奴を色々考へてたらこんな仮説が出てしまったのだ。文章や図に起こすと思考が進むとはよく言はれることだが、それが作品に対しても適用出来ると考へると、東方界隈の『read:入力』に対する『write:出力』の多さは、東方の人気を考へる上で中々に興味深い。

*1:ネタとして出すならやりますよ? そもそもうちの作品基本的に時間軸が同期してますしw

*2:もちろん、そもそものきっかけとしてある程度固まりつつあった自分なりの東方観を形にしたいといふのはあった。その辺りの話は時には久樹と東方の話を - 雑念雑記はてな出張所でも少しだけ触れてゐる。