罪を認め、悔い改めるといふこと

虚ろな絶望の果てに向かわせたものは? - ビジネススタイル - nikkei BPnet

改めて読み直した。

(言ひ加減同じ話題ばかりだが)例大祭の一週間前くらゐか、初心者スレにて、ニコニコ動画に「同人イベントのマナー紹介動画」を投稿しようと言ふ話が持ち上がったことがある。だが、多くのスレ住民の反応は「そんなことして余計にニコ厨が増えたらどーすんだ」といふものだった*1

それでも今にしてて思へば、あれだけ有名で巨大で特殊なイベントに、正しい知識もないまま参加させることの方が余程危険だったのではないか、あるいはあれだけ注目度の高いイベントこそ初心者に学んで貰ふ絶好の機会だったのではないか、と後悔してゐる。

ちなみに私は「やる夫で学ぶ例大祭参加の心得」といふ動画を考へてゐたのだが、マップの色塗りが楽しかったり初心者スレに常駐してたり自分のサークルチェックが遅れたりなどの結果、幻のまま終った。……それだけではなく、確かにスレ住民のいふ通り「余計悪化したらどうしよう」といふ恐怖が払ひ切れなかったのも事実である。

東方の同人イベント界隈をピリピリさせてゐるのは、新規ユーザを「モンスター」或いは「破壊者」として捉へてゐるからだらう。教師が親を怖れる様に、医者が遺族を怖れる様に、今までの東方界隈が急変することを怖れるのは無理のない話であり、だからこそ根が深いとも言へる。

新参者のひとりとして、少しでも良い方向になるやう、自分に出来ることをしていきたいものである。


閑話休題。「失敗が『怖い』から攻撃する」といふ人も問題だが、一方で「失敗したからもうどうなっても良い」と考へる人がゐることも、とても恐ろしい話である。以前コミケで、早朝来場のペナルティを喰らったら逆ギレして暴れ出したといふ事例があったが、失敗を怖れるといふことは、言ひ換へれば「失敗することに慣れてゐない」といふことだ。

失敗しない(失敗と認めない)といふことは、反省しないと言ふことである。つまり失敗に不慣れとは、反省に不慣れといふことだ。だから「逆ギレ」するのではないだらうか。だが、それではいつまで経っても同じ問題を繰り返すばかりである。

罪を認め悔い改めることは、自分の人生を良くするための最上かつ最良の道だと私は思ふ。我々の世界にどこぞの仕事熱心な閻魔様はゐない。自分自身を本当の意味で裁けるのは、(今のところ)自分自身しかゐないのである。

かの犯行に及んだ少年は、自分の「過ち」と「罪」を認めることが出来るだらうか。本当は直視するだけで気が狂ってしまひかねないほどの恐ろしい罪を。

その時私の受けた第一の感じは、Kから突然恋の自白を聞かされた時のそれとほぼ同じでした。私の目は彼の部屋の中を一目見るやいなや、あたかもガラスで作った義眼のやうに、動く能力を失ひました。私は棒立ちに立ちすくみました。それが疾風のごとく私を通過した後で、私はまたああしまったと思ひました。もう取り返しがつかないといふ黒い光が、私の未来を貫いて、一瞬間に私の前に横たはる全生涯をものすごく照らしました。さうして私はがたがたふるへだしたのです。*2

それを認め、受け止めることが出来なければ、救ひは絶対にやってこない。

*1:実は事後に投稿されたが、やや喧嘩腰で本当に読んで欲しい人間に届いてゐないやうに見受けられるのが残念。例へば、「サークルに協力を依頼して、クロスフェードデモを交えながら読んでいただく」みたいな方法も一つの手かも知れない。まあ、作業用BGMにされたらどうしようもないが。

*2:夏目漱石「こころ」より。この主人公(先生)は恋敵であるKを自殺に追ひやったと思ってゐる。