久樹が終身刑制度に反対する理由

私は死刑のない社会が理想であるとは思ふ。だが、終身刑*1と言ふ制度に対しては、明確に反対の意を持ってゐる。といふより、死刑廃止論者が(或いは死刑存置論者ですら)終身刑制度をセットで考えてゐることが、私にはどうしても理解出来ない。

何故ならば、終身刑と言ふ制度は、私が考へる刑務所と犯罪者更生の在り方を、根本から否定するためである。

私は、そもそも刑務所は罪を贖ふためにあるのではないと考へる。刑務所は更生のための場所であり、刑期は自分の罪と向き合ふための時間であると考へる。

多くの人は、現在の無期刑は十数年で20年で仮保釈されるため刑が軽すぎると主張する*2 私は逆に、仮釈放されるからこそ懲役・禁錮刑に意味があると考へる*3 そしてその最高刑である無期刑とは、「犯した罪は一生かけても贖ひきれない」と断ずることである。だがそれでも、一生をかけて、その一部でも贖っていかなければならない。

監獄の中で幾ら囚人が反省し、毎日被害者に対して祈りをささげたところで、それは良く言って加害者の自己満足である。俗世で犯した罪は、俗世でしか贖へない。それが遺族・社会に対する償ひである。だからこそ、全ての囚人に、俗世に戻り贖罪を模索する道を閉ざすべきでない。

何より終身刑と言ふ制度は、間違ひなく死刑よりも容易に下せるものとなるだらう。そして現状の無期刑の余地を確実に狭めるだらう。だが、贖罪の可能性を否定された咎人の生に、一体何の意味があると言ふのか。それこそ生に対する侮辱ではないか。私には到底認めがたい。

……とはいへ、理想論である。現に宮崎 勤が社会復帰出来た可能性を考へれば、刑務所はそれだけの更生能力を持たず*4 遺族は復讐以外に救ひを見出す道を持たず*5 社会は殺人者の贖罪を認める程の寛容を持たない*6 このシステムは全くの未成熟である。

だからこそ私は、死刑といふ現実への諦念と妥協の産物を、消極的だが認めざるを得ない。つまり死刑とは、社会が「あなたを幸せにすることは出来ませんでした」*7と、自他に白旗を揚げる行為である。だがそれは、本来屈辱的な事ではないかと私は思ふ。

*1:ここでいふ終身刑とは、所謂仮保釈を認めない「絶対的終身刑」を指す。また同じくここでいふ無期刑とは、所謂仮保釈を認める「相対的終身刑」を指す。

*2:実際それは悪質な都市伝説なのだが、制度上は出来るのでそれはさておく。

*3:もちろん、これには囚人が更生されたといふ前提がある。どうしても更生出来ない囚人が、結果として一生塀の中で過ごすのは仕方の無い事だと思ふ。

*4:刑務所はもっと心理学者と緊密になるべきである。

*5:これはどう考へても社会的な不備である。

*6:少なくとも私は、更生と贖罪を誓ふ人であれば、赦すことは出来ないかも知れないが、隣人としてでも迎えいれたい。……もちろん、殺してしまふ可能性も否定しないが、それは誰でもない自分の罪である。

*7:生まれつきの障碍者は悲しいことに存在するが、生まれつきの悪人は絶対に存在しえない。