労働対價の話

レジデント初期研修用資料: 機会の均等とオークション制度

信号機にしても、PHSにしても、何かの機会を公平にするやりかたは、同時にその「公平さ」に割りを喰う人を生んでしまう。そんな人達はしばしば、系の中で最も生産性が高かったりするから、これは本来不幸なことだと思う。

機会の均等化は本来、「オークション」みたいな制度の実装と一緒に進めないと、その利点を最大化できない。

(中略)

機会が平等になったなら、「自由」というものは、本来は対価を支払って購入するものになるべきなんだと思う。規則に従う代わりに、安価に機会を得る人と、対価を支払うことで「自由度」を購入する人達とが共存する社会。

今の平等ルールは、今度は対価を支払う機会を奪ってしまう。自由が欲しい人達は、「声の大きさ」以外の方法で自由を取得することができない。 これもまた、機会の不平等。公平なルールが、新しい不平等を生んでしまっている。

負荷の破滅的な一極集中を避け、うまく分散させるためには、処理力とコストの関係を調整し、単位処理時間当りのコストが等しくなるようにすればよいと言ふことだらう。その調整の方法として『オークション』が例に挙げられてゐる。

実にうまい考へ方だと思ふ一方、一般的に資本主義とはさういふものだよなといふ気もする。需要と供給が一致する方向に動くのだから。ただ、資本主義の場合、需要抑制よりも『ぎりぎりまで』供給量を増加させる力が強く働いてゐるので、搾取・過労と言ふ不幸が起きる。

しかし、例へば今、世界中の最低賃金を最低でも日本並みに引き上げてみるとどうなるか。自分たちの給与水準は一銭も上がらないのに、生活物價は高騰する。自分たちが途上国の安い労働力を食ひ物にしてゐるからである*1 これも、労働対價が低すぎると言ふ点で、冒頭の『負荷の一極集中問題』と共通してゐる。

つまるところ、私のやうな凡人は、有能な人や貧しい人から対價を搾取することで豊かな生活が出来るのである。人によって豊かかどうかは意見が分かれるだらうが、少なくともこれを讀んでゐる人間はインターネットに接續できるくらゐには豊かである。この差はどこまで埋められるものだらうか。

これが難しいところで、『競争』すると疲弊するのだが、『競争』しなければ成長どころか現状維持すら出来ない。万物が有限である以上、システムは必ず何らかの障碍にぶつかる*2。そして障碍がある以上、その際に立ってしまふ不幸な人間は必ず出てくる*3。例へば冒頭のオークションシステムが導入されれば、貧困者の医療サービスは確実に低下するだらう。

一体どうするのが一番なのか。世界では実に多様な試みがなされてゐるが、どれも一長一短*4であり、「解」は見えてゐないように思へる。

*1:中国でも最近賃金が高騰してをり、外資撤退の動きも出始めてゐるらしいが(依存症の独り言: 高騰する賃金:中国は成長モデルを転換できるのか?)

*2:無限連鎖講(別名『ねずみ講』)が良い例である

*3:もっとも、それは人間に限らず、あらゆる生命に当てはまる。さう考へてみれば、寿命と言ふシステムは実に偉大だと思ふ。不老不死技術なんてものが発明されたら、人類は有寿命の時代よりも速やかに絶滅するだらう。

*4:破綻寸前と言はれる日本の福祉制度だが、かつて『世界で最も成功した社会主義国家』と言はれてゐた時代があったことを忘れてはならない