多くのコミュニティは「好き」が前提の場となってゐる

新年もマシンガン その1:「嫌なら見るな」を撲滅したい - HINAGIKU 『らめぇ』

特に他の記事を見たわけでもないので、この記事単独に対して言及させていただく。言及になるかどうかは分らないが、だらだらと書く。

この記事を要約すると、

  1. 「嫌なら見るな」と言ふ言葉は相互理解を初手から放棄して自ら蛸壺に篭もる態度の表明である。
  2. 人の目に付く場所での表現行為は見ている人がいる限り何らかの評価が下される。
  3. 「嫌なら(略)」という言葉には「文句つけられたくないならなぜわざわざネット上に書くのだろう」と返せる。
  4. 嫌いだと言われたら、そこで戦ってほしい。
  5. それは「表現」への第一歩であり、価値観を共有しうる同志を増やす機会である。
  6. 近頃何においても、クラスタ*1化し蛸壺化する流れを感じる。軋轢を拒み、軋轢を生みそうな相手との接触を避けて生きるのは賢明だろうが、そこには生の熱さがない。自家発電もいい、同好の士とともに熱狂するのもいい。だが、他者とのぶつかり合いもまた、エラン・ヴィタール*2なのだ。

といふところになる。

私自身、限りなくこの考へに近く、事実今まで多くの意見に言及してきたし、時に否定意見をぶつけたこともある。真っ向から対立の態度を示すと拒絶されることが多かったので、敢て疑問形であったり、別論をぶつけてたりなりなどソフトな当たり方をしてる。

ところが、それでもこの試みは上手くいかないことの方が多い。

そもそも何かを「好き」と表明する(できる)場では、それが「好き」であるといふ「前提」が形成されてゐることが多い。評論サイトでは話は別だが、さういふところでは元々價値観がぶつかり合ってをり、有村氏のいふ戦ひの場は出来上がってゐる。

議論を行ふ上では、多くの場合何らかの前提が必要になる。昨今のコミュニティサイトは、「好き」といふのがそもそもの前提となってゐる。そのため「俺は嫌ひだな」といふ意見表明は、その前提を覆さうとするものであり、是非を問はずその行為自体が批判されるのである。

あと、ツールの問題もある。

一見すると不毛な議論で有名な2chなどは、実のところ「全員が壁に向かって独り言を叫んでゐる」場に過ぎない。時々他の人の独り言が聞こえて議論っぽく見える事もあるが、誰一人お互ひを見てゐないのだから議論自体が成立してゐない。

或いは「ニコニコ動画」などは、コミュニケーションはほぼ「作者対閲覧者」に限定されてゐると思ふ。評價にしても批判にしても、その殆どがUp主に対して向けられてゐる。さう言ふ意味ではLAN配線で言ふ「スター型」*3のコミュニケーションであると言へる。時々ネガティブコメントに対して反応する輩もゐるが、再々反論にまで至ることは珍しく、そのまま流れて過去ログに消える。

何が言ひたいのかと言ふと、「議論をするためには議論をするといふ前提が必要だ」といふ話。これを認識してゐないと昨今はやりの「空気読めない」と言はれて話すら聞いてもらへなくなる。議論は研鑽のためにするのであって、敵を増やしたり居場所をなくしたりするためにするのではない。


余談だが、私が敢へてドメインまで取得してゐる自サイトから、このはてなダイアリーに雑記の場所を移した理由もここにある。結局のところ、Webで自説を披露し議論しようとするためには、自分でブログなり何なりを打ち立てて環境を提供するしかない

旧雑念雑記は一応オープンではあったが、コメントもトラックバック機能もなく、リンク元から解析すると言ふまどろっこしい方法を使ってゐた。議論が加熱すると、徒委記のやうなまとめサイトがなければついて行けなくなる。ブログツールが必ずしも議論に適してゐるかどうかはまだ疑問に思ってゐるが、ひとまづは使ってみて、それから考へてみようと言ふことになった。

これからも色々なところに言及するつもりであるが、折角このやうな機能が提供されてゐるので、積極的に利用して(斬り斬られて)自分の意見を深めていきたいところである。

ちなみに、筆者である久樹はFFT好きで自サイトでも色々考察してゐるが、キャラ考察については殆ど手つかずなので、今年はそれに取り組むのも好いかもしれない。勿論反論上等で。

*1:クラスタ(cluster)」とは小規模な集合体のこと。

*2:「エラン・ヴィタール(Elan Vital)」とは仏語で生命の躍動のこと

*3:トポロジとは > スター型LAN