表現の自由と公共性と嫌儲について
昨今話題になっている「表現の自由」についての覚書。
例えば、身内ばかりが集まった内輪な飲み会の中で幾らうんこちんこトークを交わしても、問題になる事はまあ滅多にないだろう。だが、これが会社や組織のような規模になると、セクハラだ何だと訴えられる可能性は否定出来なくなる。
要するに、ある表現が意図せず誰かを傷つけたり、問題となったりする可能性は、その発言が持つ公共性に比例するのである。
かつてインターネットも同人も、限られた人間のみが関わる限られた場所であった。だからこそ「何でもあり」が通用したのであり、それで問題になる事もなかった。
だが、時代が下るにつれネット上の公私は限りなくシームレスになり、そこをはき違へた事による炎上事件は日常茶飯事となった。著作権や選挙権など、既存の取り組みとの軋轢も生じるようになった。
同じように同人も、多くの人が関わり、商業との境も薄く観念的なものとなった今、以前のように「何でもあり」という訳にはいかなくなりつつある。性的・差別的表現は言うに及ばず、或いは東方地霊殿の背景処理が癲癇患者にとって、或いは星蓮船のUFOシステムが色覚障碍者にとって問題となったように、自由と公共性の問題は、全ての表現に対して常について回る問題である*1
ましてや表現の中身に関するものであればなおの事であろう。人の価値観は千差万別であり、規模が大きくなればなるほど、問題と認識される閾値の下限は(喩えれば燃焼範囲のように)広がっていくのである。
だからこそ、この問題への対応は殊更慎重でなければならず、価値観の相違に起因する問題は極力棲み分け(ゾーニング)で共存を図るべきである。正義の錦のもとに突然公共の場に引きずり出し、見ず知らずの『被害者』から罵声を浴びせられ、謝罪と自己反省を強いられる、文革時代の批判大会みたいな社会は真っ平御免被りたい*2
或いはネットや同人においてしばしば過剰なほどアマチュアリズムが持て囃され、嫌儲的な言説が叫ばれるのも、これ以上自分たちの場の公共性を高めたくないという無意識的な危機感の現れなのかも知れない。そう考えると事は嫉妬厨乙で済む問題ではないのであり、ほとほと頭を抱えたくなった今日この頃である。
救われない魂は 傷ついた自分の事じゃなく
救われない魂は 傷つけ返そうとしている自分だ*3