文章を書くといふこと

酔っぱらった時に書いた文章といふのは、もちろん支離滅裂で赤面ものなのだが、二日酔ひの時に書いた文章といふのは、纏まってゐないくせに悲観的で、自分で書いたくせにイライラさせる。元々弛緩した文章しか書けないのに、余計に弛緩してどうするよ。

文章には自分の心が映る。自分の思ってゐることを書くのだから、当たり前の話である。気分の好いときは、浮かれた、調子の良い文章を。沈んだ時は、投げやりでぐだぐだな文章を書く。それどころか、ある件について、別の日に読み返したら全く違ふ意見になることすらある。

現在は過去の延長にある、とされる。そしてそれが常識だといはれる。ただ、昔から私は、昨日の自分が、今の自分と同じだとは、俄に信じがたい時がある。いや、今日が小学時代の夏休みの最終日だと仮定すれば、共感を得てくれる人は多いかも知れない。

過去に戻れるタイムマシンがあったとする。ドラえもんであった話だが、過去の自分に会ひに行き、学力・性格を矯正すると言ふ話である。

さて、私がそのタイムマシンによって過去に戻り、無事昔の私と邂逅を果たした。どういふわけか、その私は私の話を素直に信じ、そして私は未来人として過去の私に忠告する。……伝はるだらうか?

恐らく、無理である。むしろ、昔の私が何を思ふかなんて最早考へもつかない。「思った事」は事実として残るが、「思ふ事」は予想出来ない。何故なら、その邂逅してゐる時間は現在進行形の「今」なのだから。

過去の私にとって、そいつ(=今の私)の言ふことは、親の言ふことと大差ない。多少適当にやっても要所を締めればなんとかなるくらゐは、当時から親は言ってゐた。世界がどうなるかなど、放っておいても追体験することになる。まあ、株を底買ひしとけくらゐは言っても良いが、考へてみたらあの頃にそんな資金はなかった。月5000円で、どうやって生活してゐたのだらう?

現在が過去の積み重ねだとすれば、積み重ねる前の――変る前の過去への忠告など、無意味であらう。現代から見れば過去の自分は、その時たまたま生きてゐた別人と言っても良い*1 実感のない忠告であれば、別に未来人でなくとも先人達から沢山受けてきたのだ。

だが一方で、これから変っていく未来の自分に向けて声を届ける事には、多分、意味がある。現在は、数多の未来が重ね合はさったもの*2だから。しかもそれは、実に簡単に出来る。すぐ下にある「保存する」ボタンを押して、寝て、明日になれば、明日の私がこれを読むわけだ。多分、溢るる中二病臭に、削除ボタンを押すまいか悩み悶えるのではないだらうか。今日の私は嫌に嗜虐的かも知れない。

それでも、Log――記録は、未来へ向けた過去人達の伝言である。他人に向けるばかりでなく、自分に向けたものであっても、例外ではない。だから、出来るだけ誠実*3かつ正直*4に、記録といふのは残すべきである。それが記録の価値であるし、なにより、その方が失ふものが少なく、得られるものが大きい。人様の衆目に晒すWeblogであれば、なほのこと。

言ひ換へれば、正直で誠実に文章であれば、多少主張言動が揺れてゐたとしても、多少そりが合はなくても、それは読む価値があり、さういふ人の文章を、もっと読んでみたいと私は思ふ。乱暴な正論もまあ良いけど、そればかりだとちと食傷である。自戒を込めて。

*1:ただ、その別人が生きてゐてくれたお陰で、今の私がゐる。そのことにだけは心から感謝しなければならない。

*2:重ね合わせ - Wikipedia

*3:ここでいふ誠実とは、何も真面目腐った事を書けと言ふ話ではない。広くいへば「悪意や害意がない」といふ程度で捉へていただきたい。

*4:言ってみれば、当時正直に書いた事を立証出来るものは、自分しかゐないのだ。