ユリイカ 2009年5月号収録 「神話文字の書式 2」感想

今月のユリイカ〜詩と批評〜では、神話社会学*9「神話文字の書式 2」と題して東方Projectについての評論が掲載されている。筆者は福嶋亮太氏で、氏のブログでも度々東方Projectに関する話題も執筆されている。
あらかじめお断りするが、私は文芸評論というジャンルをほとんど読まないし、その根底となる哲学や社会学についても全くの無知と言って差し支えない。従って以下の感想は著者の意図するところとは関係のない、的外れなものとなるだろう。それを踏まえた上で、しばらくおつきあい頂ければと思う。


さて、まず端的に述べると、本記事は「神話社会学」という連載コラムの途中であり、そのテーマである「神話社会学」あるいは「神話文字」という社会学的な観念から東方Projectをとらえたものである。ここで言う神話とは、所謂日本神話のような物語としての神話ではなく、コミュニティ内で醸成されるある種の包括的(メタ的)な作品体系を指すものらしい。

科学にしろ哲学にしろ、およそ学問というものは対象となる事象を解釈するためのツールであるため、そのツール次第では見え方が違ってくるのは当然であり*1、そういった観点に興味があるのであれば、読まれてみて損はないと思う。逆に興味がないのであれば、あまり読んでも仕方がないだろう(文芸批評特有の表現を理解するのも大変である。慣れた人には平易なのかも知れないが)
前置きが長くなったが、本論に入る。

福嶋氏はまず、東方Projectが今日絶大な支持を集める要因を次のように分析している。

たとえば、東方においては、キャラクターの設定や物語の展開は、ほとんど最低限の物しか与えられていない。〔…〕しかし、その貧弱さは、ZUNによる世界観の設定によって補われている。〔…〕そして東方のファン達は、その想像上の余白に取り憑かれながら、自前の神話の生成を楽しんでいる。
〔…〕しかも、同時代的な「演算」をほとんど無際限に受け止めることの出来る寛容さから(事実上何が漂着してこようともかまわないのだから)、そこには、大衆的な欲望や投資がそのまま投影される場、ひとびとのナルシズムが決して頓挫しない魔術的な世界が実現されている。いま東方が、やはりきわめて寛容な神話体系であるニコニコ動画において絶大な支持を集めているのも、別に不思議ではない。東方の神話体系とニコニコ動画の神話体系は、性質的によく似ているのだ。

東方Projectが流行した理由を「二次創作が公認されている事」と見る向きは多いが、それだけではここまで大きな支持を受ける事は無かっただろう。作品そのものが持つ「創作の寛容さ」が重要であると言う点はおそらく正しいと思う。また、同じく「寛容さ」を持つニコニコ動画との親和性についても、従来から指摘されてきた事である。より簡単に言えば、どちらも「発想を自重しない」
「何でもあり」というのは、たとえば匿名掲示板であっても同じであるが、それを受け入れるか否かという点について両者は根本的に異なる。匿名掲示板の基本原則の一つである「素人は半年ROMれ」「過去ログ嫁というのが、「何でもあり」でありながら「非寛容さ」に支配されたその性質をよく表しているだろう。だから匿名掲示板の住民は、しばしばニコニコ動画を敵視する。善し悪しではなく、相性の問題だろう。

更に福嶋氏は、永夜抄の「おまけ.txt」の記述を元に、東方Projectの本質を『弾幕』としてとらえ、その創作手法の特殊性について指摘している。

特にいま引用したZUNの自己規定は、現代において優勢な創作原理に対して、彼がいわば脇見をしているということを示している。多くの作家が、キャラクターや物語の魅力を豊かにすることに力を注ぐ中で、ZUNはことさら弾幕のような周縁的な記号に強い関心を寄せ、「今までにない方法で弾幕を使用」するという行いに出ている。〔…〕少なくともZUNは、そういう特殊な触媒を使って作品を構造化しようとしている。
〔…〕
まず弾幕は、その形状から考えて、それ以上の分化を受け入れることができない。それは物言わぬマークの集まりであり、ただその組み合わせ次第で、いくつかのパターンが生成されるにすぎない。
〔…〕
たとえば、ここで注意しておいていいのは、東方における弾幕がまったく自立していないことである。弾幕はそれだけでは「立つ」ことができず、つねに何かに支えられている必要がある。

キャラクターの設定も立ち絵の会話も、全て弾幕の演出の為にあるんですよ。冷気を操るという事を会話で言って、その直後に冷気のスペルカードを使う。だから、弾幕が楽しく見えるのです。会話がなければ、スペルカードシステムの半分は死んでしまう。出来る事と言えば、戦車が弾を撃つ程度の常識上の弾幕か、意味もなく曲がったり止まったりするだけの弾幕のみ。*2

設定や会話、あるいは音楽などによって補足されなければ、弾幕はその生命を半ば失ってしまう。それは弾幕が、この世界に具体的に根ざした「物」ではなく、ただSTGという特殊な舞台においてのみ生存できるかぼそく脆弱な存在にすぎないからだ。だからこそZUNは、さまざまな神話的素材を通じて、その存在確率を底上げることを心がける。それは疑問の余地無く存在するリアルな「物」というよりも、むしろ本質的にはただの飾りにすぎないような、いわば「非物質的な物質」に属している。

これに続けて、弾幕そのものはほのめかしが多くかつつかまえどころのないものであり、それ自体としては通常の操作(おそらく「創作」と置き換えて良い)の対象にはならず、半ば総合芸術と化している東方の二次創作において、弾幕を主軸に据えた作品だけが少ない事を指摘している。

以上の指摘は、これだけでは少々難解なように思えるため、以下私なりの解釈を述べる。
通常、創作の手順としては、まずストーリーが主軸に据えられ、そこに合わせる形でキャラクターや設定を決めていくという過程を取り、従って全ての要素はストーリーに依存する形で出来上がる。故に、ストーリーから外れた形(つまり限りなくオリジナルに近い形)でキャラを動かすのは難しいし、新たに設定を加えてもそれだけでは作品は動き出さない。
しかし東方は、ストーリーではなく『弾幕』を主軸に据えて作品が進行する。しかも、各種要素は弾幕に依存するのではなく、むしろ逆に弾幕の方が各種の要素に依存する形で存在する。故に各種要素は独立しており、個々の要素を取り出し、組み合わせ直して容易に物語(二次創作)を作る事が出来る。
逆に言えば、全ての要素(当然ここにはSTGというゲームのジャンル(=舞台)も加えられる)があって初めて弾幕という主軸が成り立つのであり、ジャンルの変更やオリジナル要素が必然的に加えられる二次創作において、弾幕を成立させ得るものは極めて少ない、と言うものである。

非常に的を射た指摘だと思う。他のジャンルを多く見てきたわけではないので、針の穴から天を覗くような私見ではあるが、私が今まで見てきた同人としての二次創作というのは、エロ、カップリング、ギャグ、ストーリー補完、パラレルストーリーなど、ある意味では本作に依存した形態が普通であった。
しかし東方の場合、意図的に一部の公式設定を無視したり、全く原作で接点のないキャラを繋げたり、全くオリジナルのストーリーを組み込んだりなど、極めて創作性の高い二次創作作品が数多く発表されている。所謂原作主義的な立場からはこういった手法は批判される事が多いが、私はむしろ、これだけの創作性を盛り込みながら東方という世界が成り立ち、かつ魅力的な作品に仕上がっていると言う事に驚くばかりで、東方の大きな特徴と言えると思う。或いは、神尾そら氏が度々ブログで指摘する「新キャラを受け入れ易い土壌」というのも、キャラの個性の独立性が高い故にこそだろう。

その上で、私が知りうる限り、弾幕というものを作品として本格的に取り込んだものは、櫟原棯氏(おおあざうつぎおの)による「生と死の幻想」ぐらいしか浮かばない。
そこでは「生きる理由」をテーマに弾幕一枚一枚を通じて会話が進行する。問いかけの答えが弾幕の抜け道であり、その事によって弾幕そのものにメッセージ性を主張させている。ある意味禅問答のようなスペルカードバトルであるが、極限まで詰められた弾幕とその問いかけの余りの抽象的具合が、他の創作に見られないPHANTASM的世界観を見せる事に成功している*3

私も二次創作者の端くれとして愚見を述べさせていただければ、確かに弾幕というものを創作のストーリーとして組み込むのは至難の業であると思う。だからこそ、東方は東方という不可侵とも言える一次創作性を、今なお失わずにいられるのではないだろうか*4

逆に言うと、例えば東方儚月抄が多くのファンに受け入れられなかった理由は、STGにおける『弾幕』として機能する何かが作品内に存在しなかったからとも考えられる。実際、ストーリー、キャラ、或いは設定などを個別に取ってみると、他の東方作品と何ら変わりはないのである。ただ、それらを有機的に結合させる『儚い何か』が無かったために、種々の要素は分解し、作品としてみられない者が続出したのではないか*5 香霖堂であれば蘊蓄、三月精であればまったりさがこれらに相当しているのであろう*6

但し、今し方私は各種要素は独立していると書いたが、福嶋氏は、むしろ弾幕という抽象的な要素は、物語に相互依存的な変化をもたらしていると指摘している。「非常識な日常」が繰り広げられる幻想郷において、弾幕ごっこという『異変』が、日常の延長でありながら何かがあったという仮想的な感触を残し、非常識で構成された各種要素が、弾幕の依存を通じて相互に結びつくきっかけを与えている、という事らしい。弾幕はおまけではなく、あくまでも東方の主軸として種々の要素を強化する要素となりえているのである。


また福嶋氏は、東方の物語の構造を、ひとつの意味に対し、常にそれを打ち消すシルエットをまとわりつかせるノンセンスな神話生成ととらえている。
その例として、妖々夢西行妖の復活を試みる事は幽々子の死につながる事を挙げ、生を獲得する事はイコール死に近づくことのであり、また地霊殿は地底深くに潜った末に人工太陽(空)を目にし、或いは永夜抄では「真実の月」を求めた物語が進めるにつれて胡散臭い演出と偽物の月(=弾幕)に覆われ、或いは紅魔郷では「東方」という名に反して西洋的なキャラクターばかりが登場する事などを挙げている。
更に輪廻転生が確立している東方において、「死後の世界とは即ち現在の世界」であり、明るく楽しい死後の世界という言葉自体が、鏡像的図式として成立しているとも指摘している。これらのナンセンスな物語構造は、「不思議の国のアリス」に代表されるルイス・キャロル的「ワンダーランド」と共鳴しているのは明らかであり、それは『上海アリス幻樂団』というサークル名にも現れているという。

こういった東方の持つ「反転性」については、神主自身がこれまでの各種インタビュー・講演等を通じても同様の発言がなされている。

(サークル名について)和洋折衷が基本にあります。私の中の上海は、西洋の文化と東洋の文化が入り交じった都市のイメージだったので、上海を入れて見ました。東京に無くても東京と会社名に入れるのと同じです。アリスは何なんでしょう?租界に住んでいた子供でしょうか? でもそれより、おとぎ話のイメージが強いですよね。アリスは。上海アリスには、東洋と西洋と幻想、そう言った意味を、よく知っている単語で表してみました。*7

地霊殿って名前からしてもう、凄い和風の屋敷のイメージが想像出来るから、そこはないなと。逆にステンドグラスがあるような西洋的な建物にしたい。
だいたいひねくれている感覚のところから全部作るんです。こうだったらみんなこう思うから絶対変えたい。
だいたいだって今までの作品みんなそうですから。一番酷かったのがアレですよね。(少し考えて)紅魔郷が一番酷かったですよね。
紅魔郷は一番最初に、最初というか、東方ってのを知る人が一番多いだろうと思った時に、まあ東方って名前だから、あの凄い西洋風なゲームを想像するだろうなと思って、まず一番最初はせいy……あ、西洋じゃない東洋風似するだろうなと思って西洋風に作って。で、なんか闇を使う能力とか凄い強そうだから一番最初に持ってきたりとか。割とそういう一発……最初からびっくりさせような事ばっかり考えてたんです。今でもだいたいそうですけど。こう来たら絶対こう来るだろうと思ったら、やっぱり意外性を持たせたいとかがあって。それで、まあ、ゲームの内容にしてもキャラクタにしてもだいたい意外性を考えて作ってしまう。やっぱりそういう癖なんだろうなあ……。*8

こういった反転性に基づくアプローチも中々興味深いところであるが、ただ少しになったのは、この論を適用させるに当たって、何故か文中では一切触れられなかった東方風神録のアンチテーゼとは何だろうか
風神録のテーマ(テーゼ)は言うまでも無く『信仰』であろう。信仰を殆ど失った博麗神社が、ある日突然外からやってきた守矢神社から業務停止命令を受け、話し合いをするために山に向かう。これだけだと宗教戦争かと見紛う展開であるが、いざ主祭神である八坂神奈子に会ってみると、実は守矢神社もまた、外の世界で信仰を失った神々の一柱であることが判る。
風神録のサブタイトルは「弾幕の伝統」であり、弾幕とは風神録の中ではお祭り(=神遊び)とされている。伝統を外の世界と仮定すれば、かつては神話に残る大戦を果たしてまで信仰を広げた神々が、外の世界(=人間)を捨て妖怪たちと楽しく親交を深めている様が、風神録のアンチテーゼなのだろうか。如何せん、それだけでは神主の言う「意外性」に欠ける気がする。それならば祟り神の総締めである諏訪子の方が余程意外だっただろう。あーうー。

また、こういった意味が常に反転する世界観は、一切の演算が終了した「過去」をめぐる寓話、それも「永い夜」や「冥界」といった暗いモチーフでなければ成り得ないと言う指摘も、自分としては腑に落ちなかった。矢張り、風神録においてこの論を適応させるのは無理があると思うのである。


実は、意味が常に反転する物語構成と暗いモチーフというキーワードにおいて、私は不思議の国のアリス以外に、一つ思い当たる作品があった。NHKみんなのうたの一つ「まっくら森の歌」である。

光の中で見えないものが
闇の中に浮かんで見える
まっくら森の闇の中では
昨日が明日 まっくらくらいくらい

まっくら森の歌は、幻想的であるがその裏に狂気をはらんでいる。考えてみれば、意味が反転する非常識というのは狂気以外の何物でもなく、東方でも度々狂気という単語が取り上げられるのもまた、本質的を同じくとしているからであろう。
しかし、東方の世界が幻想的な狂気で彩られながら、そこに本能的な恐怖を感じる事はない。まっくら森の歌が今なお2chなどで「トラウマソング」としてあげられているのと、好対照を示していると思う。では一体何が、東方の狂気から恐怖を打ち消しているのか。私はそれを東方が持つ「子供っぽさ」であると考える。

改めて考えてみると、東方の物語の大部分は、「子供っぽい理屈」に支配されている。紅魔異変にしても春雪異変にしても、或いは永夜異変にしても守谷の騒ぎにしても、或いはスペルカードバトルという方法論についても、みんな「子供の理屈」である。より踏み込んで言えば、大人の理屈が徹底的に除かれているといっても良い。博麗神社や御阿礼の子といった、幻想郷において極めて重要な礎を司る者が全て子供であるのも、幻想郷を支配するのが子供の論理であるのと同根であろう。
となると、幻想郷の世界というのは「アリス・イン・ワンダーランド」でだけでなく「ネバーランド」という面もまた符合していると言えると思う。何故なら幻想郷は『永遠の楽園』だからである。それも、正直者が永遠に失われた楽園である。
もちろん、それは自分勝手な無秩序を意味しているのではない。子供のものであれ大人のものであれ、その理屈の中では理屈として秩序だって成立しているのである。彼女たちが訳の分からないながらも理屈を語るのはそのためであり、それが大人の理屈が支配する私達からみれば「非常識」に映るだけである。

そう考えると、私は東方の本質というのは夢違科学世紀の「童祭 〜 Innocent Treasures」に集約されているのではないかと思うのである。子供の理屈というのは、確かにそれはその範囲の中では筋だっているのであるが、依って立つべき礎が無いために、大人である私達からみれば酷く「危うく」見える。

Q.「幻想郷」は平和なんでしょうか?
A.
平和なんだけどかなり危ういですね。
人間らしいドロドロしたやり取りが一切無い平和です。
ちょっと傾いたり穴でも空いてしまえば、サラサラ血さながらきれいさっぱり流れてしまう。健康。*9

利害関係が一致している限り、幻想郷はご都合主義的な平和がいつまでも続くであろう。そして東方の世界の住民達は、自分たちの世界がとても危うい事を識っているので、利害が対立する事もおそらく永遠にないだろう。
激しく狂おしい弾幕をかいくぐるSTGは、一瞬一瞬の須臾の中で常に危うさが伴う。湧き出でる源は違えど、危うさの中の儚さこそが、東方を東方たらしめる幻想なのではないかと私は思うのである。


まあ、改めるまでもなく、随分本論と外れてしまい、もはや感想文としても成り立たなくなってしまった感があるが、いつもの話であると笑って許していただければと思う。氏の主張はおそらくもっと高尚な者だと思うので、もしこの文章を読んで少しでも興味を持たれた方は、是非原文を読んでみて自分なりに考えてみて欲しい。私の拙い思考力では、口惜しながらこの程度が限界である。

*1:たとえば、文学的に見れば弾幕は何かのメッセージであるかも知れないし、数学的に見れば式の塊ように映るだろう。

*2:ZUN「東方永夜抄 おまけのあとがき」なお、明らかな誤植を一箇所訂正した。〔作者註〕

*3:こういった手法は「絵」で見せる事の出来ない小説で良く用いられるが、余り東方では見ない気がする。まあ、見ている絶対量が少なすぎるという指摘は否定しない。昔の作品は読めないからねぇ。

*4:個人的には、一番「仄めかしが多く」「捉えどころが無い」のは神主自身ではないかという気もするが。

*5:ちなみに、この『儚い何か』を自分の中で補完出来た者にとっては、儚月抄は普通に楽しい作品である

*6:シリアスは必然的にストーリーに依存するため、それだけでは他の要素を繋ぎ止められないのである。だから儚月抄を普通の作品として成立させるためには、他の東方にない、所謂普通の二次創作としてのアプローチが必要だったのだ。その本質を見抜けず、あたかも誰もが楽しめる作品かのように全面的に推してしまったのは一迅社の大きな誤りだっただろう。

*7:東方の夜明けより

*8:キャラ☆メルTV 2008 Vol.8 「博麗神主 東方地霊殿を語る」より

*9:幻想掲示板0401-ログより