東方の中で永夜抄だけ「浮いて」見える根本的な理由
永夜抄は、神主が唯一「後先」考へずに作った作品だからではないかと。
元々紅妖二作は繋ぎとして考へられてたし、風や地も、或いは花映塚や文花帖、萃夢想、緋想天だって「他の作品を視野に入れながら」作ってる。
神主的には、永夜抄で東方に一旦区切りを付け、キャラリセットもかなり本気で考へてゐたと思ふ。リセットする気だからこそ、問題視するスペプラなども採用した。
だから、永夜抄だけ異常に完結度が高いし、各種設定の入れ込みや演出、絵、音楽面も完成の領域に達してゐる。花映塚でも求聞史紀独白でも「再生」といふ点が強調されてゐたが、紫香花の小説を読めば更に「リセット」を意識してゐた事が伺へる*1
実際、風神録は文を除けば*2旧作勢は一切顔を出さなかった。エンジンも新しく作り替へ、システムはシンプルなものに戻った。
ただ、矢張り昔のキャラも出てきた方が良いと判断したのか、地霊殿では見知った顔が登場し、キャラリセットはほぼ有名無実なものとなった。紅や妖の設定は元々繋ぎが意識されてゐたので、放っておいても動く口実が出来るからだらう。
結果として、永夜抄だけ如何とも融和させ難いキャラや設定が残る事になった*3 三面BGM「懐かしき東方の血」を始めとして、永夜抄はむしろ紅魔郷以上に旧作っぽさがある。阿求は月人たちをよく分からない人たちとして扱ってゐるが、それがまさにメタ的な印象そのものでは無いだらうか。
……つまるところ、望月なのよね。十五夜。十五ってのは、霖之助が言ふには「満ちた数字」らしい。(F)16だから。ならば、その十五夜が十六夜になって新しい数字を刻み始めるためには、何が必要なのかしらね。
で、まあ、本来ならここで儚月抄の話へ繋げていくところなのだが、月抄の考察は単行本買ふまでしないと言ってあるので、今回はここで終了しておく。