新字・歴史的仮名遣が何故批判されるのかよく解らない件

ホットエントリ入りするたびに指摘される仮名遣ひについて。

歴史的仮名遣(旧仮名遣ひ)が「読みにくい」「苦手」といふ指摘は解る。それについては、「読んで欲しいちゃんとした記事」は高天原の本家にあって、そちらは現代表記であり、雑記は仮記事で覚書だから私の好きなやうにやってゐると申し開きするしかない*1

だが、さうではなくて、歴史的仮名遣と新漢字の組み合はせに対して「見苦しい」「みっともない」といふ指摘をする人もゐて、こちらはよく解らない。

私は別に文語文を書きたいわけでも、旧文を書きたいわけでもない。歴史的仮名遣を用ゐた現代文を書きたいのである。仮名遣ひは語に倣ふべきだといふ歴史的仮名遣の原則に賛同し、表向きは表音に倣ふべきだと言ひながら「は」と「を」だけ語にならふ訳の判らない現代仮名遣より余程真っ当だと思ふからである。

たしかに漢字の置き換へについてもをかしい点は多々あるのだが、それは沈澱と殿下を『殿』に、台形と颱風を『台』に統一したり、漢字そのものを廃して平仮名との「混ぜ書き」にしませうみたいな非合理的で無茶苦茶をやってゐる点について反対なのであって、画数の多すぎる字についてある程度整理するといふだけなら私も賛成の立場である*2

また、歴史的仮名遣ひは義務教育で習ひ、「読めないことは無い」のに対し、「全體」「醫學」とか書いても読めない人が多いといふ事情も含まれてゐる*3

といふより、そもそも仮名遣ひと漢字表記は本来別の話であって、「一緒でなければならない」といふ主張の根拠がよく解らない。解らない以上は考へやうがないので、思ふところがある人は遠慮なく指摘していただければ幸ひである。


余談だが、「覚える」「超える」「見える」は歴史的仮名遣においても「える」のままである。それは「覚ゆる」「超ゆる」「見ゆる」の転化だからだ。や行のえ段ははるか昔に消滅したため、「え」に転化せざるを得なかったのである。だから、は行の活用である「へる」にするのはをかしい。
「据える」「植える」が「据ゑる」「植ゑる」なのは、わ行のえ段が現在も音として残り、消滅してゐないため。「ゐる」と「をる」(居る)も同様。

*1:何故かリンクされるときは雑記の方が人気なのだが。

*2:それでも以前は「發」など、かなりの漢字を旧表記してゐた。今は、先に挙げた熟語に関するもの以外は全て新漢字に統一してゐる。

*3:といふか、仮名遣ひについては慣れの影響が大きいと思ふ。私も最初は少しつっかへたが、今は普通に読めるし。